航空宇宙軍史・完全版

長かった…。5冊あるのはもちろんだが、1冊がかなり分厚い。レナルズのほどではなかったが、それに迫る厚さ。

航空宇宙軍史は、短編集に入っていたのを少し読んだことがある程度だった。

序盤はガチガチに固めたハードSFといった感じで、宇宙で戦争したらこうなるという、地味でリアルな描写が続く。太陽系内は広いし、例えば対艦戦闘は相手の交差軌道にデブリを撒くという感じなのだが、そこにはリアルな緊迫感がある。

と思いきや、終盤は恒星間で戦争しているし、しかも単純に外敵とみたいな形にならずなかなか込み入った話になっている。作品としてはこちらが先に出ているのだが、私はデブリを撒いていたところからスタートしているわけで、正直想定外な展開で楽しめた。

実は序盤の地味さの中であってもこっそり驚くべき能力を発揮しているのが航行用のエンジンだったりする。航行図などが挿絵で入ったりするのだが、いわゆる経済軌道を取らずに力技な軌道を取っていたり。リアル方向に倒れるとどうしても太陽系ですら広すぎる感が否めないのだけれど、そうか大加速度で力技…みたいに思った。

// コロンビア・ゼロはストック入りしました。

航空宇宙軍史・完全版一 カリスト―開戦前夜―/タナトス戦闘団 (ハヤカワ文庫JA)
航空宇宙軍史・完全版二 火星鉄道一九/巡洋艦サラマンダー (ハヤカワ文庫JA)
航空宇宙軍史・完全版 三 最後の戦闘航海/星の墓標 (ハヤカワ文庫JA)
航空宇宙軍史・完全版 四: エリヌス―戒厳令―/仮装巡洋艦バシリスク (ハヤカワ文庫JA)
航空宇宙軍史・完全版 五: 終わりなき索敵 (ハヤカワ文庫JA)

ヒュレーの海

「世界の終わりの壁際で」と同時に優秀賞だったらしい。

私は言葉に酔えるタイプでは無いので、その辺がちょいちょい引っ掛かった。また、当て字を当てる難しさみたいなものを感じる。

やはり、なにがしか現実にあるものを当てるときは、現実の持っている性質が反映されることで、見たこともない何かの説明にもなり得ていることが大事なのではと思う。その点、全く無関係とは思わないけれど、イメージ先行な印象が否めなかった。私もプログラマなせいで、評価が手厳しい気もするけれど。

ウェブ小説的なものを見ると、勢い重視だなと思う事がある。確かに勢いは軽視できない。ただ傾向として、そっちに寄せ過ぎと思う事が多いので、それが媒体のせい(ディスプレイで読む都合)なのかには興味がある。

ヒュレーの海 (ハヤカワ文庫JA)

世界の終わりの壁際で

久々の感想文がなぜかこれ。あれとかそれとかをすっ飛ばしてなぜかこれ。

軽い。ラノベの定義は知らないが、私にとってはこういうのは「ライト」である。

ふと、文章の軽さ、重さとは一体なんなのだろうかと思う。別にお話としての「深刻さ」のことではない。行間にある質量の違いだろうか。文章にもダークマターがあるのだろうか。

世界の終わりの壁際で (ハヤカワ文庫JA)

言い訳

前に書いた記事が1年以上前という…。最後のが「エピローグ」なのですごく良い感じなのだが、下書きにはちゃんと「プロローグ」も入っていて、書いたなら出せよと突っ込みたい。

それはそのうち出すとして、今年一番気に入っていたのは…うーん、なんだろう。悩ましい。ちょっと並べてから悩んできます(一年後へ続く…ではないと良いな)。

エピローグ

物語の物語。物語の中に逃げ込んだ、人類の末裔たる登場人物たちによる物語。相変わらず入れ子構造が激しく、人によっては混乱の要因だろうと思うが、何も特別なものではない。物語と現実との出入りは、日常的に、今まさにここでも起きる。

MYSTというゲーム&小説がある。MYSTでは、文字の記述が世界を生み出し、生み出した世界へ入ることができる。

より抽象的には、光あれとかなんとか書くだけで、世界は生み出せる。

これは比喩ではない。抽象的であることは、必ずしも実在しないことを意味しないからだ。

例えば文章について、形態素解析で特徴点を取り出して、ある種のベクトルとして扱い、他の文章との類似性を探してみたりできる。文章から形作られているベクトル空間は、我々が実際に利用可能なので、何らかの形で実在しているものと言える。

文章を利用可能な何かに組み直す際、特徴点の取り出し方、ベクトルの形成し方、空間の使い方、いずれも選び放題だ。特徴点だ、ベクトルだなどという必要も実際はない。形態だって何でも良い。

しかも大抵の文章は、有限の数の文字から重複ありで作られるのだから、並べる方法が問題なのである。たとえ傍目に失敗していたからといって、読むときにもう一度並べ直しても、何の不都合もない。

この文章が実際は昨日の夕食のレシピで、入力か出力の都合で本の感想文めいたものに見えているだけだとしても、何ら不思議はない。だってこの文章、もともと"0","1"だけで書かれているのだ。たまたまあるルールに従うと感想文になるかもしれないが、ほかのルールを適用していけない理由はない。

同じように、元がどうであれ、ルールが込み入った結果として現実と同じ解像度の世界が再生されることも、あるいはそれ以上の世界であっても、原理的には可能だろう。

こうなってしまうと、どんな文字列の中にも、どんな世界でも実在しうる。

物語が何らかの形で実在しうるなら、物語の中で作られた物語はどうか。「光あれと書く人物」の登場する物語は。『「光あれと書く人物」が登場する物語を書く人物』が登場する物語はどうか。

タチの悪い言葉遊びのように見えても、至って真面目である。

私はこれを書きながら、私自身が実在していると思っているが、もしかすると存在するかもしれない希少な読み手であるあなた方にとっては、私とてただの登場人物に過ぎない。この感想文を書きつつ、同時に自身の実在を信じる以上、物語の実在を疑うわけにいかないのだ。

円城塔の物語は、摩訶不思議でよく分からないと見せつつ、現実世界にはみ出している。そこが面白さだと思う。
 

エピローグ 

SF的な宇宙で安全に暮らすっていうこと

これは、原文が本当にこうなのか、それとも翻訳者のせいでこんなになっているのか。海外翻訳のSFを散々読んできて、原作者の他に、翻訳者にも文章の癖みたいなものがある(ので原作者との文章での相性問題が翻訳者に関してもある)ことは分かっていたが、こんなにも直接的に原文と比較したくなったことははじめてだった。

SF的な宇宙で安全に暮らすっていうこと (新☆ハヤカワ・SF・シリーズ)

伊藤計劃トリビュート

ダイレクトに世界観を受け継いでいるものから、テーマ的なものを受け継いだものなど。いろんな人が書くとピンキリになったりするが、どれも楽しめる内容だった。

設定や論理展開について、いやそうはならないだろうとか思うものもあるのだが、それはそれ。考えさせたりする部分があるのは、作品としては良い出来なのだと思う。また、展開のバイアスには、書き手の善良さなどが出ているのだろうなとか、そんなことを感じる。

伊藤計劃トリビュート (ハヤカワ文庫JA)