SF的な宇宙で安全に暮らすっていうこと

これは、原文が本当にこうなのか、それとも翻訳者のせいでこんなになっているのか。海外翻訳のSFを散々読んできて、原作者の他に、翻訳者にも文章の癖みたいなものがある(ので原作者との文章での相性問題が翻訳者に関してもある)ことは分かっていたが、こんなにも直接的に原文と比較したくなったことははじめてだった。

SF的な宇宙で安全に暮らすっていうこと (新☆ハヤカワ・SF・シリーズ)

エピローグ

物語の物語。物語の中に逃げ込んだ、人類の末裔たる登場人物たちによる物語。相変わらず入れ子構造が激しく、人によっては混乱の要因だろうと思うが、何も特別なものではない。物語と現実との出入りは、日常的に、今まさにここでも起きる。

MYSTというゲーム&小説がある。MYSTでは、文字の記述が世界を生み出し、生み出した世界へ入ることができる。

より抽象的には、光あれとかなんとか書くだけで、世界は生み出せる。

これは比喩ではない。抽象的であることは、必ずしも実在しないことを意味しないからだ。

例えば文章について、形態素解析で特徴点を取り出して、ある種のベクトルとして扱い、他の文章との類似性を探してみたりできる。文章から形作られているベクトル空間は、我々が実際に利用可能なので、何らかの形で実在しているものと言える。

文章を利用可能な何かに組み直す際、特徴点の取り出し方、ベクトルの形成し方、空間の使い方、いずれも選び放題だ。特徴点だ、ベクトルだなどという必要も実際はない。形態だって何でも良い。

しかも大抵の文章は、有限の数の文字から重複ありで作られるのだから、並べる方法が問題なのである。たとえ傍目に失敗していたからといって、読むときにもう一度並べ直しても、何の不都合もない。

この文章が実際は昨日の夕食のレシピで、入力か出力の都合で本の感想文めいたものに見えているだけだとしても、何ら不思議はない。だってこの文章、もともと"0","1"だけで書かれているのだ。たまたまあるルールに従うと感想文になるかもしれないが、ほかのルールを適用していけない理由はない。

同じように、元がどうであれ、ルールが込み入った結果として現実と同じ解像度の世界が再生されることも、あるいはそれ以上の世界であっても、原理的には可能だろう。

こうなってしまうと、どんな文字列の中にも、どんな世界でも実在しうる。

物語が何らかの形で実在しうるなら、物語の中で作られた物語はどうか。「光あれと書く人物」の登場する物語は。『「光あれと書く人物」が登場する物語を書く人物』が登場する物語はどうか。

タチの悪い言葉遊びのように見えても、至って真面目である。

私はこれを書きながら、私自身が実在していると思っているが、もしかすると存在するかもしれない希少な読み手であるあなた方にとっては、私とてただの登場人物に過ぎない。この感想文を書きつつ、同時に自身の実在を信じる以上、物語の実在を疑うわけにいかないのだ。

円城塔の物語は、摩訶不思議でよく分からないと見せつつ、現実世界にはみ出している。そこが面白さだと思う。
 

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